朝木明代



朝木明代(あさきあきよ 1944年9月4日生)
 [政治家]


 東京都出身。市立東村山中学校、都立武蔵高校卒業後、銀行で勤務した。一男二女の母で、東村山市議の朝木直子は長女。ボランティア活動、市民運動、PTA活動にかかわり、市教育委員、公民館運営審議会委員を歴任。1986年7月の参院選では東京都選挙区から立候補した中山千夏の選挙運動において東村山市の責任者となる。1987年4月、中山千夏・矢崎泰久・永六輔の応援を得て東村山市議会議員選挙に無所属で立候補し最下位当選。1人会派「草の根市民クラブ」を届け出て活動。1991年4月、1995年4月の同市議選では、さらに紀平悌子・加藤富子・北野弘久らの応援も得て、いずれもトップで連続当選した。

 朝木は、税金の使途の監視や職員給与の節約、環境問題、ゴミ・リサイクル問題に取り組んだ。市議当選前から、1982年前後に知り合った矢野穂積と政治活動をともにしている。市議会において行政、市職員や同僚議員のさまざまな疑惑を繰り返し追及し、並行して活動を広報する印刷物『東村山市民新聞』『くさのね通信』『市役所ミニ情報辛口速報版』などを市内各戸に配布した。これらの広報紙は同僚議員(主に、共産党・社会党・社民連の議員)に対する罵倒とも取れる表現を含んでいた。朝木の質疑に対する答弁者や共産党・社会党・社民連の議員に対しては、傍聴席からの不規則発言が頻発した。議会外においても、矢野穂積とともに公金支出・議事運営などにかかわる訴訟を市に対して多数(1985年から1995年の間に約40件)提起した。

 1992年の半ばごろから草の根市民クラブと創価学会・公明党との関係が悪化し、1993年から朝木は、市議会においても創価学会・公明党の追及に力を注ぐようになった。1993年の平成5年6月定例会では、公明党市議を監査委員に選任する案に対し、「聖教新聞社と創価学会の関係は?」「聖教新聞社は法人か非法人か?」と市長を問いつめ、6月10日の一般質問では、日蓮正宗から破門された創価学会は宗教法人と言えないのではないかと述べ、課税において宗教法人扱いを続けていることへの疑問を呈した。1994年の平成6年9月定例会では、旧公明会館・創価学会東村山文化会館の家屋調査について質問し、1995年の平成7年3月定例会の予算歳出質疑では、東村山市に転入した創価学会脱会者を「創価学会の東村山市の職員が住居を探し当てて尋ねてきた」ことを追及した。1995年には『週刊新潮』(2月9日号)に朝木明代・矢野穂積への取材を主なソースとした特集記事「創価学会に占領された東村山市役所のゆがみ」が掲載された。並行して、『東村山市民新聞』で「公明党・創価学会は政教一致で憲法20条違反」と主張した。1995年3月17日の平成7年3月定例会で、公明党議員がこれらを非難すると、朝木は、3月22日の質疑で「弁明すればするほど、かえってみずから立証してみせてくれた。手間が省けた」と反論した。

 同じ1995年6月、朝木は、東村山市内の店で発生した万引き事件(6月19日)の被疑者として、警視庁東村山警察署で3回(6月30日・7月4日・7月12日)にわたって取調べを受けたが、一貫して否認した。初回の取り調べ当日夜に、朝木は矢野穂積とともに「『東村山市民新聞』の取材」として被害届を出した理由を問うために店を複数回訪問している。7月4日の取り調べにおいて、朝木は、万引きのあった時間には同僚の矢野議員と食事をしていたと主張し、レストランから受け取ったレシートのコピーを提出した。しかし、裏付け捜査の結果、レシートのコピーは後日にレストランに請求して受け取ったレジジャーナルのコピーであること、朝木の供述とレシートの記載内容・レストラン店員の記憶に不整合があることが分かり、アリバイ工作を行ったと見なされて7月12日に書類送検された。送検直後に朝木は「創価学会員である店主が創価学会の意を受けて万引き事件をでっち上げた」とのコメントを報道各社に出して『夕刊フジ』『日刊ゲンダイ』『週刊朝日』『週刊ポスト』で報じられ、8月3日には店主を名誉毀損罪で刑事告発した。

 万引き被疑についての地検事情聴取を控えた1995年9月1日午後10時ごろ、朝木は西武東村山駅の駅前のロックケープビルから転落した。ビルの下で倒れていた朝木をビル1階のハンバーガー店の女性店員が10時半ごろに発見し、救急搬送されたが、搬送先の防衛医科大学校病院救急救命センターで9月2日未明に死亡した。警察は自殺と断定したが朝木が創価学会の脱会者の救済活動をしていたこと、議会において創価学会・公明党を追及していたこと、捜査にあたった東村山署長、副署長が創価学会員だったことから創価学会による関与を示唆する動きがあり、政界、宗教界、マスコミ、遺族等を巻き込んだ一大騒動に発展した。

 事件の捜査に当たった東村山署では下記理由より自殺と断定している。
 ・朝木の身長(160cm)なら自力で手すりを越えられたこと。
 ・転落現場の手すりには外側からつかまったとみられる手の跡がついており、突き落とされた形跡はない。他人が突き落としたとすれば放物線を描いておちたはずで、ビルの真下に落ちることはないこと。
 ・「大丈夫ですか」と聞かれて「大丈夫です」と答え、第1発見者に「救急車を呼びましょうか」と聞かれて「いいです」と、救急車の要請を断っている。また朝木の口から被害を訴える言葉もなかった。
 ・衣服や身体に争った跡がない。ストッキングが破れていたのは、現場まで裸足で歩いて行ったものと考えられる。また、事件の現場で、事件の前後には不審な人物や車両の目撃証言がないこと。

 東京地検では下記理由より自殺と断定している。  ・マンションの踊り場や着衣に争った形跡がない。
 ・直後に発見した飲食店従業員に「大丈夫です」と答え、「救急車を呼びましょうか」との問いに「いいです」と断っており、危害を加えられたことをうかがわせる言動もなかった。
 ・死亡する数時間前から一人で沈んだ様子で行ったり来たりする姿が目撃されている。

 司法解剖鑑定書では上肢に以下の損傷を認めるとの記載がある。
 ・左上腕部後面、肘頭部の上左方4cmの部を中心に、2×2.5cmの紫青色皮膚変色部。左上腕部内側下1/3の部に、上下に7cm、幅3cmの淡赤紫色及び淡赤褐色皮膚変色部。加割すると皮下出血を認める。
 ・左手背部、拇指側に小豆大から小指頭大の淡赤褐色皮膚変色部3個、小指側に2×1.5cmの淡赤褐色皮膚変色部を認める。
 ・左第1指中央部手背側、1.5×1cmの淡赤褐色皮膚変色部。左第2指末節部手背側、1×0.5cmと0.7×1.2cmの淡赤褐色皮膚変色部夫々1個。左第2指中節関節部手背側、半米粒大淡赤褐色表皮剥脱。左第3指末節関節部手背側、0.7×0.5cmの淡赤褐色皮膚変色部。加割すると皮下出血を認める。
 ・右上腕部内部、腋窩の高さの下方11cmの部を中心に、上下に5cm、幅9.5cmの皮膚変色部を認める。加割すると皮下出血を認める。
 ・右前腕部内側、肘頭部の高さの下方9cmの部を中心に、上下に5.5cm、幅6.5cmの範囲に栗粒大以下の紫赤色皮膚変色部及び1×1.6cm以下の紫青色皮膚変色部多数を認める。加割すると皮下出血を認めるとある。

 ジャーナリストの瀬戸弘幸は東村山署現職警察官の内部告発として「朝木の死は「自殺」ではなく「他殺」であり、東村山署では殺害した犯人3名を特定したが、検察からの捜査終了の圧力がかかり捜査を断念せざるをえなかった」という内容を公表した。また東京地検の検察官は、不起訴処分について創価学会の弁護士に電話連絡を行った。そして、矢野は、自分は検察官が創価学会の弁護士に電話をした場に偶然居合わせており、検察官が「告訴から3年間、十二分に捜査した結果、創価学会側が事件に関与した疑いは否定できないということで、不起訴の処分をきめたんですよ」と発言した。

 矢野穂積・長女の朝木直子らは下記の根拠により、謀殺である、創価学会が関与している、と主張している。
 ・朝木は1992年から創価学会および公明党の批判を展開していた。また、創価学会からの脱会者の救済もしていた。
 ・9月3日には高知の創価学会関係のシンポジウムで講演する予定であった。
 ・朝木の性格として自殺はあり得ない。
 ・事務所・自宅(ともに、転落現場から徒歩数分以内にある)に遺書はなく、事務所は照明・エアコンがついたままで、やりかけの仕事が中断した状態だった。財布等の入ったバッグも置いたままだった。矢野は9時19分までに事務所に戻って朝木が自宅からかけた電話を受けた。朝木は「ちょっと気分が悪いので休んで行きます」と伝え、矢野は「ハイハイ」と答えた。長女の朝木直子は10時30分頃に自宅と事務所に戻って状況を見ており、事務所は無人だったという。
 ・矢野らによると、事件の2年ほど前から朝木や周辺の人物に対する嫌がらせや脅迫(いたずら電話、放火、ポケベルに入った不吉なメッセージと読むことができる数字列、など)があり、一部については創価学会員によることが判明しているという(ただし、その多くは、矢野らの証言以外に根拠がなく、これらの事実が争点の1つとなった)。
 ・転落現場の手すりには朝木のものと思われる指の跡がある(擦った跡であり、指紋は採取できなかった)。これは、落下に抵抗したことを示している。
 ・転落死事件当時、事件の担当検事及び担当検事の指揮に当たる東京地検八王子支部長は、ともに創価学会員であった。
 ・創価学会は、懸命に他殺を否定したり、自殺を主張している。矢野らによると、殺害に無関係であれば、殺害への関与をほのめかされたとしても無関心を保つはずである。

 矢野・長女の朝木直子らは謀殺説をマスコミ取材やライターの乙骨正生を通じて広めた。謀殺説はマスコミの関心を集め、『FOCUS』『週刊現代』『週刊新潮』をはじめ、週刊誌や月刊誌、テレビ・ラジオ番組で謀殺疑惑が取り上げられた。事件は米国の『タイム』アジア版の創価学会・宗教法人法改正を扱った記事の導入部でも紹介された。創価学会は『週刊現代』『週刊新潮』の記事に対する反論を機関紙『聖教新聞』・系列誌『潮』に掲載して謀殺説を批判し、万引きを隠蔽するためのアリバイ工作が露見したことを苦にした自殺の可能性が高い、と主張した。

 TBSテレビは、夕方の報道番組『JNNニュースの森』で1995年10月6日から2回にわたって転落死事件を「極めて不可解な謎」とする特集を組んだ。1回目の特集は長女の朝木直子と矢野の談話を中心に構成され、朝木が市政の不正を厳しく追及していたこと、遺族が他殺を確信していることを紹介し、矢野らの主張する他殺の根拠を列挙した。万引き被疑事件について、朝木直子は「完全なでっち上げ」、矢野は「レシートのコピーは証拠ではなく参考資料として出した。後から訂正したのでアリバイ工作ではない」と述べ、番組は「最も本質的な自殺の動機が分からない」と結論している。2回目の特集の主な内容は、次の4点であった。
 ・転落時の着衣の臀部部分を横断する白い筋について検証した。矢野は、ビルの手すりに擦れて付く塗料の跡と似ており、身体が縦になって落ちたとすると手すりの跡が横方向につくのは不自然だと指摘した。TBSが依頼した検査機関が赤外分光法による検査を行った結果、血液や汚れ以外は検出されず、白い筋は摩擦によってできた「生地のすり傷」と推定された。この件について、以後、矢野らが他殺の証拠として言及することはなかった。
 ・事件直前に朝木から矢野にかかってきた電話の録音テープの鑑定を日本音響研究所の鈴木松美に依頼し、鈴木は周波数の変動が「極限の興奮状態で発せられた声」を示していると鑑定した。矢野らは犯人グループが朝木を自宅で拘束し、事務所の矢野に電話をかけることを強制してから現場に連行して突き落とした、という推理を示している。
 ・倒れている朝木とハンバーガー店の店長・女性店員との問答の内容をニュースの森ではテロップ付きで
発見者「大丈夫ですか」
朝木「大丈夫」
発見者「落ちたのですか」
朝木(首を横に振った)
朝木「いいです」
と紹介、その後ハンバーガー店のオーナーが記者会見で説明するシーンに入るが「この人物、実は当事者ではない」というナレーションが入った。取材班は女性店員の自宅を訪れて取材を申し入れたが「もうタッチしないことにしている」「全部警察に話した」と断られ、最後は、関係者と名乗る人物が「社長(オーナー)から、もう関係ないんだから何も言うなと言われている」と話すシーンで結ばれている。

 新進党に加わっていた旧公明党勢力と背後の創価学会に対し警戒と攻撃を強めていた自民党も、早くからこの事件に着目し、亀井静香・白川勝彦が警察庁・警視庁に自殺として処理しないことを求めたという。11月の衆議院・参議院の「宗教法人に関する特別委員会」においては、自民党所属の議員が、乙骨正生が『文藝春秋』に執筆した「東村山市議怪死のミステリー」を主な根拠として転落死事件の捜査手法に疑問を投げかける質問をした。質問は、
 ・朝木が創価学会をきびしく批判追及していて創価学会からの嫌がらせを受けていた。
 ・転落死を自殺とするには疑問な点がある。
 ・上記にもかかわらず東村山署は副署長を先頭に自殺と決めつけて捜査している。
など矢野らの主張をほぼそのまま紹介していた。以前から創価学会との対立を抱え、乙骨正生と親密だった共産党中央も矢野らの支持に回った。

 謀殺疑惑が広がった状況下で転落死事件の調査を続けていた東村山署は、
 ・落下現場と推定される非常階段付近に争った痕跡がない。
 ・現場のビルは駅前にあり、転落は夜10時ごろと推定される。人通りが多く目撃されやすい場所を選んで拉致連行しビルから突き落としたというのは殺害目的としては不自然であり、そのような条件にもかかわらず連行・争闘の目撃者もなかった(落下時と思われる悲鳴を聞いた人はいた)。また、殺害犯は、落下したものの息があった朝木を放置して現場から去ったことになる。
 ・事件の夜に朝木が転落現場付近を単独で歩いていたという目撃証言がある。
 ・遺体の検視・司法解剖の結果、朝木の身体には、落下による損傷の他には争ったり抵抗をした痕跡は見られなかった。
 ・血液からエーテル、クロロホルム・吸入麻酔剤・劇毒物・アルコールなどは検出されず、倒れている朝木は意識を保っていた。
 ・倒れている朝木はビル1階のハンバーガー店店長および店員(第一発見者)と問答を交わしたが、突き落とされたことを訴える言動はなく、救急車を呼ぶのを断った。店長が朝木に「大丈夫ですか」と声をかけると、明代は「大丈夫」と答え、店長が「落ちたのですか」と尋ねると首を振って「違う」と否定した。店員が「救急車を呼びましょうか」と申し出ると「いいです」と断ったという。ちなみに矢野らは「落ちたのですか」「違う」の部分は「飛び降りたのか」「飛び降りてはない」と主張している。
などの根拠から自殺寄りの判断(犯罪性は薄い)をして1995年12月に書類送検、東京地方検察庁も1年半後の1997年4月14日に「自殺の可能性が高く、他殺の確証なし」と結論した。

 1995年9月2日死去(享年50)

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