富田昌子



富田昌子(とみたまさこ 1913年生)
 [三原山自殺ブームのきっかけとなった自殺行の同伴者]


 1933年2月、実践女子専門学部国文科2年のK子(21)は「三原山の煙を見たら私の位牌と思ってください」と父に謎の言葉を残し家出、2月11日に親友の富田昌子に、「私の最期を見届けて」と懇願して、その夜、2人は東京湾汽船菊丸に乗って大島へと向かった。富田がK子の頼みをあっさり承諾したのは、K子が以前より三原山での自殺に立ち会って欲しいという願望を何度も富田に語っていたからであった。

 2月12日朝、富田とK子は下船するとすぐに三原山山頂を目指した。1時間半後に山頂に到着、富田は火口の様子に恐怖を感じて「死んじゃいけない」と思わず叫んだが、K子は遺書を富田に握らせ「さようなら昌子さん」と言い残すと、火口へ向けて走り飛び降りてしまった。富田は錯乱して号泣、自分の下駄をK子が残した草履と履き替えると、下駄は火口に投げてそのまま泣きながら火口の周辺をさまよっていたところ、地元民に発見され保護された。この時、火口近くでK子の投身を目撃した人によれば、朝の光を正面に受けて、紫の和服を着た女性が煙の中へ飛び込むのが見えたという。

 K子の自殺は悩みや恋愛のもつれなどによるものではなく、ある種の価値観によるものであった。K子は以前より家族にも「19歳になったら死ぬ」と口走っていて、万葉集や金塊集を愛読し、潔癖主義者で結婚を嫌い、家にいた87歳の祖母が足腰立たぬ様子を見るのを嫌がって家では朝食をとらないなど徹底していた。また、K子は常々、自分の死体は人の前にさらしたくないと語っていたという。K子と富田は兄同士も親友で特に仲が良く、K子は色々と富田に相談していて、それに富田が同情していた。

 その後、K子の自殺に立ち会った富田が1月8日にも同じ実践女子専門学部の同級生の三原山自殺に立ち会っていた事実が発覚すると、「死の立会い人」としてセンセーショナルに報道され、自殺事件よりもむしろ富田の挙動に世間の注目が集まり始めた。

 三原山は連日の新聞報道の余波で、一躍、自殺の名所に躍り出る。三原山の火口には自殺志願者と見物人が殺到し、霊岸島から大島へ向かう船は1日150人ほど、休日には1500人近くもの客を乗せ、2日に1人は自殺志願者が島で保護される始末となった。中には見物人が「誰か飛び降りる者はないか」と冗談で言ったところ、「俺が飛び降りる」と言って火口に消えたりなど、多くの見物人の目の前での自殺が結構あったという。

 一方で2件の自殺の立ち会い人となった富田は世間から「変質者」「狂人」といった罵倒が浴びせられるようになった。そして、スキャンダラスな報道の標的から逃れるように埼玉県の実家で寝込んでいたが、4月29日に変死を遂げた。世間の非難を気に病んでの自殺とも、持病が悪化したためともされる。

 なぜ二度も親友の自殺に立ち会ったのかは、富田の変死と共に闇に消え、三原山に付いた自殺の名所という名前だけが残ってしまった。三原山火口への自殺者はこの年だけで少なくとも944人(男性804人、女性140人)に及んだとされる。

 1933年4月29日死去(享年20)


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