ヨハネ・パウロ1世



ヨハネ・パウロ1世(John Paul I 本名:アルビノ・ルチアーニ 1912年10月17日生)
 [ローマ教皇]


 アルビノ・ルチアーニはイタリアのヴェネツィアから北へ約120kmのベッルーノ県カナーレ・ダーゴルドで、長男として生まれた。彼には2人の弟と1人の妹がいた。敬虔な信者であった母親の深い感化を受けて育ち、幼少の頃より司祭になる事を決心していた。父親は季節労働者のために自宅にいる日は殆どなかった。その後父親は定職を得たもの、非常に貧しい家庭であった。

 1923年にフェルトレの神学校に入ったが、後にベルーノ教区の神学校に移って学んだ。このころにはイエズス会に入会しようとするが、神学校のジョシュエ・カタロッシ司教には、入会を認められなかった。1935年7月7日にベルーノの聖ピエトロ教会で司祭に叙階された。同神学校の教授などを経て1958年にヨハネ23世によってヴィットリオ・ヴェネトの司教に任命された。司教に任命された後もサンマルチノにある粗末な古城に住み、質素な生活を続けた。なお、この司教時代におこなわれた第2バチカン公会議には、全会期を通じて参加した。

 1970年にヴェネツィアの総大司教に任命され、同地域の貧困層や障害者の救済、さらに発展途上国への支援に尽力した。なお、「聖職者にならなければジャーナリストになっていた」とよく周辺に話しており、実際にこの頃から新聞や雑誌への投稿を数多く行うなど、積極的に言論活動を行っていた。そうした中でも清貧の精神を常に失わず、総大司教に任命された時には信者達からの100万リラの寄贈金があったが、「私がこの地に来た時はポケットに5リラしかありませんでした。ですから去る時も5リラしか持ちません」と語り、全額を寄付した。

 1972年に、ルチアーニが総大司教を務めていたヴェネツィアで聖職者や低所得者層への低金利融資を行っていたカトーリカ・デル・ベーネト銀行が、バチカンの運営資金調達や資金管理などの財政を取り仕切るバチカン銀行の総裁で、マフィアなどと深い関係を持っていたアメリカ生まれのポール・マルチンクス大司教と、バチカン銀行の主力取引行であるアンブロシアーノ銀行のロベルト・カルヴィ頭取の、脱税と株式の不法売買のために秘密裏に売却された。これに対してルチアーニ総大司教はバチカンに抗議をしたものの、マルチンクス大司教がパウロ6世から直々にバチカン銀行総裁任命されていたことから、パウロ6世へ累が及ばないように巧みに抗議を行ったことなどがパウロ6世に感銘を与え、パウロ6世からの信頼を勝ち取った。この事も影響し翌年の1973年には枢機卿に選ばれた。

 1978年にパウロ6世の死去を受けて行われたコンクラーヴェにおいて、「本命」と目されていたジュゼッペ・シーリ枢機卿やブラジル出身のアロイージ・ロシャイデル枢機卿を退け、1日目の3回の投票でルチアーニ枢機卿が新教皇に選ばれた。教皇名は「ヨハネ・パウロ1世」となり、複合名を初めて採用した教皇となった。

 ヨハネ・パウロ1世は様々な意味で型破りな教皇であった。複合名を初めて採用したことを皮切りに、虚飾的な事柄に対して非常に改革的に臨み、例えば、教皇演説の中で、これまでの教皇が伝統的に自らを「朕」と呼んでいたのを初めて「私」に変えた他、豪華な教皇戴冠式や教皇冠も拒否した。教皇用の輿の使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるを得なかった。さらに、難解な宗教用語やラテン語を多用していた表現を、ジュール・ヴェルヌやピノキオなどを引用した、一般人にも理解しやすい平坦な表現へと改めたが、「威厳を損なう」などとして保守派からは反感を買うこととなった。

 また、中南米やアフリカ諸国の聖職者をバチカンの要職につけた他、中南米やアフリカ諸国の貧困や独裁体制下で苦悩する民衆への同情を示し、アルゼンチンで行われていた「汚い戦争」を進めていたホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領が戴冠式に訪れた際には、直接的な表現でアルゼンチンの現状を非難した。しかし教義は保守的であり、論議を呼んだ回勅『フマーネ・ヴィテ』の立場を支持していたと言われている。教皇としてまず第2バチカン公会議の決議事項の実施促進を指示した。ただし、教皇就任以前のヨハネ・パウロ1世は、イタリアの貧しい労働者の生活の実態を知っていただけに、人工受胎調節に関しては一定の理解を示し、『フマーネ・ヴィテ』には失望したという説もある。

 また、バチカン銀行の不透明な財政についての改革を表明し、実際に、かつてカトーリカ・デル・ベーネト銀行の売却で暗闘し、その後も元フリーメイソンの「ロッジP2」のリーチオ・ジェッリ代表を含むメンバーや、マフィアなどと深い関係を持ち汚職を続けていただけでなく、贋造公債の発注がFBIの捜査対象になるなど、その言動が国際的にも問題視されていたマルチンクス総裁の更迭を決めていた。また、マルチンクス総裁以外にも、バチカン銀行の汚職に関係するバチカン内部の関係者の更迭を死去直前に決定し、その更迭者リストの内容をめぐって様々な噂が流れていた。

 上記のような改革を表明したことが、多くのバチカン内の改革派と信者からの支持と喝采(そして対象者からの抵抗と非難)を受けたにも関わらず、ヨハネ・パウロ1世は、教皇在位わずか33日目の1978年9月28日の午前4時45分にバチカン内の自室で遺体となって発見された。通常通りの起床時間になっても起きて来ないことを不審に思った修道女によって発見された直後に、個人秘書であるマギー神父に連絡が行き、さらに午前5時にはヴィヨ国務長官に連絡が行ったものの、ヴィヨ国務長官はすぐに専属医師団を呼ばず、自らの側近に連絡した後にようやく医師団次席であるレナート・ブゾネッティ医師に連絡を行った。

 その後午前6時過ぎに駆けつけたブゾネッティ医師による検死が行われたものの、遺体解剖が行われていないにもかかわらず、ブゾネッティ医師は「死亡推定時刻は27日の午後11時ころで、死因は急性心筋梗塞である」と断定し、午前7時27分にバチカン放送による逝去の発表がされた際にはこの検死内容がそのまま発表された。なおこの際には、なぜか(聖職者の私室に修道女ではあっても女性が入ってはいけないという理由で)遺体の発見者が個人秘書のマギー神父であると偽って発表され、さらに遺体発見時刻も「午前5時30分」と偽って発表された。

 さらに死去後に、ヨハネ・パウロ1世の遺体発見時にベッド周辺に置かれていた眼鏡とスリッパ、就寝前に手元にあったヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教などのバチカン銀行関係者の更迭を含むバチカンの人事異動者リスト、通常は常時用意されている遺言状が、昨日ヨハネ・パウロ1世より更迭が言い渡されたヴィヨ国務長官により持ち去られており、その後行方不明になった。

 またヨハネ・パウロ1世の遺体が発見されてから15分と経たず、医師団への連絡も行われていない午前5時前には、早くもバチカン御用達の葬儀社であるシニョラッティ社に連絡が行った上に、遺体解剖も行われず、明確な死因もわからないうちから防腐処理が行われたことなど、バチカンによる「証拠隠滅」や「情報操作」と思われる行為が矢継ぎ早に行われたことが、信者やイタリア政界関係者、マスコミだけでなく、バチカン内部関係者からも大きな疑惑を呼んだ。イタリアの有力紙である「コリエーレ・デラ・セラ」は、遺体解剖がすぐに行われなかったことを10月1日の紙面で大々的に批判した(なお、遺体解剖は防腐処理の終了後に秘密裏に行われた)。

 この様な不可解な証拠隠滅や情報操作が行われた上に、ヨハネ・パウロ1世によるバチカン銀行の改革と自らの追放を恐れていたマルチンクス大司教が、普段は早朝に起床することがないにも関わらず、なぜか当日午前6時45分に教皇の寝室近辺にいたこともあり、ヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教、そしてマルチンクス大司教と関係の深かった「ロッジP2」のジェッリ代表、さらにこの2人と関係の深いアンブロシアーノ銀行のカルヴィ頭取らによる謀殺説が囁かれることになった。

 葬儀ミサは同年10月4日に執り行われた。「微笑みの教皇」といわれ、飾らない態度と柔和と謙遜、率直な姿勢が人々の信頼と期待を生んでいた教皇だった。わずか33日の教皇在位は、20世紀に入ってから最短の在位記録となった。

 1978年9月28日死去(享年65)


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