ガボン航空惨事



ガボン航空惨事(1993年4月27日発生)
 [サッカーザンビア代表の選手らを乗せたザンビア空軍の輸送機が大西洋上に墜落した航空事故。この事故により乗客と乗員あわせて30人全員が死亡した。]


 1964年10月24日に独立したザンビアはケネス・カウンダ大統領の下、1969年に国の経済活動の基盤となる銅鉱業の国有化に乗り出し外資系企業の株式の過半数を取得して新たに2社の鉱山会社として再編。2社を国営鉱業開発公社の傘下に置いた。銅の国際価格が世界的に高水準を維持していた事を受けてザンビア経済は活況を呈し、1960年代後半から1970年代前半にかけて年平均経済成長率は10.6%を記録した。カウンダ大統領は好況を背景にサッカー代表チームの強化を命じ、国営鉱山会社から賄われる強化費や給与によって選手の多くは生活が保障された。彼らはカウンダ大統領のイニシャルに因んで「KKイレブン」と呼ばれていた。

 一方、1970年代半ばに入ると銅価格の暴落や石油危機などにより経済成長率が低下。1980年代に入った後も経済状況は改善せず、国民の不満は高まりを見せていた。カウンダ大統領は1991年に従来の一党制支配から複数政党制に移行し総選挙を実施する事を発表。10月の大統領選挙で対立候補のフレデリック・チルバに大差で敗れ職務から退いた。チルバ政権の下では国営企業の民営化や公務員数の削減などの経済政策が進められていた。

 ザンビア代表はアフリカの強豪チームの一つで、1988年のソウルオリンピックではグループリーグでイタリア代表やグアテマラ代表を破りグループリーグ首位で準々決勝進出を果たした。準々決勝では西ドイツに敗れたものの、この大会での活躍はザンビア代表の存在を世界中にアピールしアルジェリアやモロッコやカメルーンに次ぐアフリカの新勢力として認知された。その中でもイタリア戦でのハットトリックを含め6得点を挙げたエースストライカーのカルシャ・ブワルヤは同年にアフリカ年間最優秀選手賞に選ばれ、翌年にオランダのPSVアイントホーフェンへ移籍した。

 一方、チルバ政権による経済政策の転換により国営鉱山会社からの資金援助が受けられなくなり、慢性的に資金難の状態にあったザンビアサッカー協会の下では選手の待遇も劣化し、遠征費費用の捻出が困難な場合はザンビア空軍に依頼し老朽化した軍用機を借受けて遠征するほかなかった。1992年から始まった1994 FIFAワールドカップ・アフリカ予選では1次予選H組で1位となり最終予選進出を果たし、1993年4月から始まる最終予選ではモロッコ代表とセネガル代表と同じグループとなった。3チームでホームアンドアウェイ方式のリーグ戦が行われ、1位で勝ち抜いたチームが翌年にアメリカ合衆国で開催されるワールドカップへ出場することになっていた。

 デ・ハビランド・カナダ社製のDHC-5 バッファロー型機AF-319は1975年に初飛行を行ったが1992年12月21日から1993年4月21日までの5ヶ月間、機体は使用されていなかった。セネガルに向けて出発前の4月22日と4月26日に試験飛行が行われた際にエンジン内部の数箇所に異常が発見されたが、飛行は予定通りに行われた。一行は1993年5月2日にセネガルのダカールで行われるセネガル代表戦に出場する為、首都のルサカからザンビア空軍に所属する同機に乗り一路、セネガルへと向かった。その際、コンゴ共和国のブラザヴィル、ガボンのリーブルビル、コートジボワールのアビジャンの3か所で給油を行い目的地へ向かう予定だった。なお、コンゴ共和国側から軍用機が領空に侵入する事について難色を示された為、飛行ルートを変更して直接ガボンへと向かったとする資料もある。

 2つ目の給油地であるリーブルビルの国際空港で給油と休憩を済ませ1時間45分後の22時44分に離陸した。その数分後に左エンジンが故障し機体は推進力を失いリーブルヴィル空港の沖合500mの地点に墜落した。この事故によりザンビア代表の選手18人と監督とスタッフ、乗組員5人の合計30人全員が死亡した。AF-319は軍用機であるため交信内容や飛行状況を記録するブラックボックスが設置されておらず、ガボン空軍による調査は難航した。リーブルヴィル国際空港の航空管制官と事故機との交信内容に異常を知らせるものはなく、事故機を操縦した経験のあるザンビア空軍のパイロットや製造元のデハビラント社も事故機に問題はなかったと主張した。

 2003年11月にガボン国防省による調査結果が公表され、AF-319機の左エンジンの欠陥を批難する内容となった。事故の直接原因としては、機体の状態を知らせるインジケーターランプの劣化状態が操縦士の誤操作を誘発させ、正常に機能している右エンジンを停止させたために飛行機は全ての推力を失い墜落した、と結論付けた。また、操縦士は飛行前日にモーリシャスから帰還したばかりであり疲労状態にあったことも明らかになった。一方、ザンビア政府による航空事故の完全な報告書は公表されておらず、遺族らは政府に対して報告書を公表するように働きかけを行っている。

 この飛行機事故により選手、指導者、関係者、記者、搭乗員を合わせて30人が犠牲となった。この中にはザンビアサッカー協会会長のマイケル・ムワペ、モスクワ五輪代表メンバーで監督のゴッドフリー・チタル、ゴールキーパーのデイヴィッド・チャバラやミッドフィールダーのダービー・マキンカをはじめとしたソウル五輪代表メンバーの6人、1992年にザンビア年間最優秀若手選手賞に選ばれたモーゼス・チクワラクワラらが含まれていた。代表メンバーのうち、フォワードのブワルヤは所属先のオランダから直接セネガルへ現地入りし代表チームと合流する予定だった為、ミッドフィールダーのチャールズ・ムソンダは所属クラブのRSCアンデルレヒトが負傷から復帰したばかりのムソンダの招集を拒否した為に難を逃れた。

【犠牲者】
 ◇リチャード・ムワンザ(GK、ソウル五輪代表)
 ◇デイヴィッド・チャバラ(GK、ソウル五輪代表)
 ◇ジョン・ソコ(DF)
 ◇ホワイトソン・チャングウェ(DF)
 ◇ロバート・ワティヤケニ(DF)
 ◇サミュエル・チョンバ(DF、ソウル五輪代表)
 ◇ケナン・シマンベ(DF)
 ◇ウィンター・ムンバ(DF)
 ◇イーストン・ムレンガ(MF、ソウル五輪代表)
 ◇ダービー・マキンカ(MF、ソウル五輪代表)
 ◇モーゼス・チクワラクワラ(MF)
 ◇ウィズダム・ムンバ・チャンサ(MF、ソウル五輪代表)
 ◇ヌンバ・ムウィラ(MF)
 ◇ゴッドフリー・カングワ(MF)
 ◇ケルヴィン・ムタレ(FW)
 ◇ティモシー・ムウィトワ(FW)
 ◇モーゼス・マスワ(FW)
 ◇パトリック・バンダ(FW)
 ◇ゴッドフリー・チタル(監督、モスクワ五輪代表)
 ◇アレックス・チョラ(コーチ、モスクワ五輪代表)
 ◇マイケル・ムワペ(ザンビアサッカー協会会長)





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