スティーブン・フォスター



スティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster 1826年7月4日生)
 [アメリカ・作曲家]


 ペンシルベニア州ピッツバーグの隣町ルイスヴィルで、アイルランド移民の曽祖父の家系を引く比較的裕福な家庭に10人兄弟の末っ子として育つ。彼の生まれた家は白壁の家と呼ばれていた。父のウィリアムは、ヴァイオリンを演奏するほどの音楽趣味を持ち、母のエリーザ・トムリンスンも詩情豊かな教養に富む女性であった。フォスター自身も幼児期より並ならぬ音楽的才能を見せ、7歳からは横笛を、9歳からはギターを独学で習得し、後にはクラリネットも修め、1841年、15歳の時にはアゼンス・アカデミー卒業式の際に自作の「ティオガ円舞曲」をアテネ・アカデミーの教会でフルートで奏した。この作品は現存しないが、作曲に興味を持ったフォスターはモーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバーらの作品を寝る間も惜しみ研究していたという。このようにアカデミックな音楽教育はほとんど受けなかったにもかかわらず、二十歳になるまでにすでにいくつか歌曲を出版していた。

 最初の歌曲は1844年に出版された「窓を開け、恋人よ」で16歳のときの作品である。翌1845年には弟と友人からなるセーヴル・ハーモニスツ重唱団のために「ルイジアナの美人」、「ネッド叔父さん」などを作曲する。1845年4月にピッツバーグは大火に見舞われ、町の3分の1にもあたる約1000棟の建物を焼失する。

 1846年にオハイオ州シンシナティに転居し、兄の蒸気船海運会社・アーウィン・フォスター商会で簿記係を務める。当時のシンシナティは、ピッツバーグをしのぐ勢いの多文化社会であり、彼の働く会社の窓の外にはオハイオ川に蒸気船がひっきりなしに行き交い、南部の黒人音楽や荷揚げ作業人夫の労働歌に満ち溢れていた。このシンシナティ在住中に、当時独立戦争後の新大陸で流行した黒人霊歌風である最初のヒット曲「おおスザンナ」を発表。これは1848年〜1849年のカリフォルニアのゴールド・ラッシュの賛歌となった。当時、白人が顔を黒く塗り大げさに歌うミンストレル・ショーやエチオピア風の喜劇役者の魅力に強く引きつけられていたが、その結果が1849年に出版された曲集『フォスターのミンストレル・ソング集』に結実し、クリスティ・ミンストレルズによってヒットした「やさしいネリー」が収録されている。

 同年フォスターはペンシルベニアに戻ってコンサートを開き、クリスティ・ミンストレルズと共演、最も有名な歌曲が書かれる時代の始まりとなった。1850年に、ピッツバーグの名医の長女であるジェーンと結婚、翌年には娘マリオンをもうけるが、この後に音楽的円熟を見せ「ケンタッキーのわが家」、「主人は冷たい土の中に」、「故郷の人々」の傑作を次々に生む。1853年にフォスターはニューヨークに出てファース・ポンド社と契約を結び、「ソーシャル・オーケストラ」を発表。翌1854年には「金髪のジェニー」を発表。この年に妻子もニューヨークに移り住む。が、翌年にはフォスターは単身ピッツバーグに戻り、続いて妻子も追うが、1855年の両親の死と翌1856年の兄ダニングの死はフォスター一家に打撃を与え、借金暮らしに陥る。1857年、ファース・ポンド社との先払い契約によって辛うじて金銭を得るが困窮生活は続く。1860年にニューヨーク市に再び転出し「オールド・ブラック・ジョー」を発表。が、翌年には全曲の版権を売却、出版社との契約も切れ、作曲しては売るものの夜にはお金が底をつくというひどい困窮状況に陥り、やがて妻子も去っていく。次第に生活は飲酒と孤独に苛まれてたものとなる。

 1864年1月10日、マンハッタンのノース・アメリカン・ホテルに滞在中であったフォスターは、粉々に割れた洗面台のそばで頭部および頚部から大量に出血した状態で倒れているところを作詞家クーパーによって発見され、ベレビュー病院に搬送されたものの13日に発熱と出血多量で死亡した。数日前から発熱しており、意識朦朧の状態でベッドから起き出し、洗面所に入ったところで平衡感覚を失って転倒、その際に頭部を洗面台にぶつけて割ってしまい、その破片で頚動脈を切断されたことが致命傷になったものと推測されている。この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」と走り書きされた紙片だけであった。

 1862年の作品「夢路より」が発表されたのは死後2ヶ月後のことである。亡骸はペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されている。

 1864年1月13日死去(享年37)





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