鷹司平通



鷹司平通(たかつかさとしみち 1923年8月26日生)
 [鉄道研究家]


 東京都出身。公爵鷹司信輔の嗣子。17歳のとき、大政翼賛会の公募に応じて会歌「大政翼賛の歌」を応募し、入選する。

 1941年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。大阪理工科大学(現・近畿大学)を卒業。

 1950年5月20日、東京高輪の光輪閣にて孝宮和子内親王(昭和天皇の第三皇女)と結婚。華族制廃止以後のため鷹司家は一般人の扱いであり、そのため天皇家から一般家庭への初の嫁入りとされ、民主化の象徴として話題になった。

 幼時より大の鉄道好きとして知られ、交通博物館に勤務する傍ら鉄道の研究を行い、特に『鉄道物語』(1964年)は名著として知られる。鉄道友の会の世話役も務めた。

 1966年1月26日、台東区上野公園の国立美術館にて17世紀フランス名画展に出席。同日夜、銀座のバー“いさり火”に飲みに出かけ、同店のマダム(39歳)を渋谷区千駄ヶ谷の彼女の自宅マンション(当時の鷹司邸から徒歩圏)に送り届けてそのまま家に戻らなかったため、1月28日夕方、交通博物館が警察に捜索願を提出した。

 1月28日夕方、マダムの自宅マンションにて、彼女と共に死去しているところを発見された。推定死亡時刻は1月27日午前1時から午前5時。同日午後6時に警察は宮内庁に連絡を取り、宮内庁の連絡から和子夫人が平通の死去を知った。この訃報をニューヨークタイムズでは大々的に報じられたが、日本国内での報道は抑制されたものが多かった。当初は宮内庁は事故を隠す意向だったが、28日には読売新聞が50人の記者を動員、さらにNHKも動き出した事で宮内庁は観念し、29日午前0時に宮内庁が緊急会見を行い死去が発表された。和子夫人は取り乱すほどの大きなショックを受け、娘の身を案じた昭和天皇は入江相政侍従を鷹司邸へ直ちに派遣。その後、天皇・皇后をはじめ皇族や親族が相次いで弔問に訪れた。

 結婚時に注目を集めたことに加え、鉄道通の実直な人物と知られていただけに、死去は世間の関心を集めた。マスコミは「情死」「心中」などとスキャンダラスに報じ、和子夫人は各種インタビューなど“公の場への露出”を避けるようになった。29日夕方までに警察はストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒での事故死と判断した。

 1966年1月27日死去(享年42)


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