上温湯隆



上温湯隆(かみおんゆたかし 1952年11月29日生)
 [サハラ砂漠の単独横断に挑んだ青年]


 東京都生まれ。都立町田工業高校を中退後、1970年から1972年にかけて海外ヒッチハイク旅行を行い、アジア・中近東・ヨーロッパ・アフリカなど54ヶ国を旅する。その間サハラ砂漠の縦断を3度決行している。

 1973年、今度はラクダによるサハラ砂漠単独横断に挑戦するべく、モーリタニアの首都ヌアクショットでラクダを購入、サーハビー(アラビア語で「わが友よ」)と命名。数日乗り方を習った後、1974年1月25日にヌアクショットを出発。しかし、3000qまで進んだ6月16日にサーハビーの衰弱死により計画を断念、上温湯も栄養不足から壊血病にかかっていた。

 その後、再起を図るためナイジェリアの首都ラゴスへ移動し、時事通信社ラゴス支局長長沼節夫のもとに身を寄せ、仕事の手伝いをしながら体力の回復と資金の調達をする。

 翌1975年5月、新たなラクダを購入して前回サーハビーが死んだ地点から再び旅立つが、2週間後マリ共和国メナカ地区で死亡。死因は渇死、ラクダが逃げたことが原因と考えられている。

 サハラ砂漠には古くからいくつかの重要な通商路が存在し、サハラ周辺と他の地域との交易が有史以前から盛んだった。だがそれは縦断であり、横断は達成されていなかった。上温湯の挑戦する前年にもイギリスのジェオフレ・ムーハウスがラクダ5頭とアラブ人のガイド1人を連れて横断に挑戦したが、途中で断念している。それに比べて上温湯はラクダ1頭でガイド無しでの挑戦であった。

 上温湯の日記を元にした長尾三郎著の『サハラに死す』は、当時海外を目指す若者の反響を呼び、多くのサハラ旅行者を生み出した。実際にラクダでサハラ横断を挑戦した人もいたという。

 その後、上温湯の埋葬場所が存在することを知ったカメラマンの広木武夫は、1984年6月マリ共和国メナカを訪れ、上温湯の遺骨を掘り起こし、現地の警察に保管されていた遺品の引取りに成功している。そして、1984年6月19日告別式がとり行われ埼玉県川越市の永楽院の墓に納骨された。

 1975年5月29日死去(享年22)





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