谷川岳宙吊り遺体収容



 谷川岳宙吊り遺体収容(たにがわだけちゅうづりいたいしゅうよう)は、群馬県谷川岳の一ノ倉沢で発生した遭難死亡事故における遺体収容である。遺体がザイルで宙吊りになり回収困難となったため、ザイルを銃撃で切断し遺体を落下させることで収容した。


 1960年9月19日、群馬県警谷川岳警備隊に一ノ倉沢で救助を求める声が聞こえたとの通報があり、警備隊が現場に急行したところ、衝立岩(ついたていわ)正面岩壁上部からおよそ200m付近でザイルで宙吊りになっている2名の登山者を発見した。2名は前日に入山した神奈川県横浜にある蝸牛山岳会の会員で、20歳と23歳の男性だった。発見時には既に死亡していた。2名の死亡は、遠方からの双眼鏡による観測で確認された。遭難の原因は、両名が死亡しているため不明だが、なんらかの理由でスリップしたとされている。

 現場となった衝立岩正面岩壁は、当時登頂に成功したのは前年の1例のみという超級の難所で、そこに接近して遺体を収容するのは二次遭難の危険が高く不可能と思われた。当初は油に浸したボロ布を巻いた長い鉄棒を用いてザイルを焼き切るという案が出されたが、検討の結果不可能と判明。所属する山岳会や2人の両親のたっての願いで、遺体を宙吊りにしているザイルを銃により打ち抜き切断し、遺体を収容することになった。

 9月24日に陸上自衛隊第1偵察中隊から狙撃部隊が召致され、銃撃を試みた。隊員は射撃特級の資格所持者であったが、数百メートル先のヒモ(ザイル)の切断は難航を極め、2時間で1000発以上の小銃・軽機関銃の弾丸を消費したものの、不成功であった。その後、ザイルと岩の接地部分を銃撃することでザイル切断に成功、遺体を収容した。最終的に消費した弾丸は1300発に上る。この場面は多くの自衛隊関係者、山岳会関係者のほか多くの報道関係者が見守っていた。遺体が回転しながら滑落する様子はフィルムに記録されており、当時のニュース映画では「あまりに痛ましい遺体収容作業」だったと語られている。

 1966年5月28日にも、大学生(20)と予備校生(20)の男性2名が宙吊りになる事故が起き、午後10時30分に救助隊が下から呼びかけたところ、大学生は死亡しており予備校生からは返事があったが、翌朝に救助を開始して現場に到着したところ、すでに予備校生は胸をザイルが締め付けるなどして疲労死していた。宙吊りの大学生を支えるザイルを切れば助かったのだが、そうすると大学生は墜落の惨状で大変な事になるので、いくらもう死んでいるとはいえ切るのをためらったという。

 また、1943年9月8日にも、2人の登山者が絶壁の岩場で遭難死する事故が起きていたが、遭難場所がわからず行方不明として処理され、遺体はそのまま岩場に放置されていた。30年後の1973年5月13日に、偶然この場所にたどり着いた登山者が白骨化した遺体を発見。ポケットに残されていた10銭硬貨や過去の記録から、1943年の遭難者と判明した。5月25日に山岳クラブと地元警察により、30年ぶりに下山して親族の元に帰った。

 谷川岳の標高は2000mにも満たないが、急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺のために天候の変化も激しく、遭難者の数は群を抜いて多い。1931年から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年までに781名の死者が出ている。この飛び抜けた数は日本のみならず世界のワースト記録としてギネス認定されている。

 谷川岳の気象の厳しさから標高1500m付近が森林限界となるために、比較的低い標高でも高山植物が観察でき、首都圏から近いこともあって多くの登山者が訪れている。中には気軽に訪れる者も少なくなく、急激な気象の変化による遭難が後を絶たない。こうしたところから、谷川岳は「魔の山」とも呼ばれる。遭難の防止のために群馬県谷川岳遭難防止条例が制定されている。


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ