テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故



 テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故(テネリフェくうこうジャンボきしょうとつじこ)は、1977年3月27日17時6分、スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島にあるロス・ロデオス空港の滑走路上で2機のボーイング747型機同士が衝突し、乗客乗員合わせて583人が死亡した事故である。死者数においては史上最悪の航空事故である。死者数の多さなどから「テネリフェの悲劇/テネリフェの惨事」とも呼ばれている。生存者は乗客54人と乗員7人であった。


 パンアメリカン航空1736便はロサンゼルス国際空港を離陸し、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に寄港した。一方のKLM4805便はオランダからの保養客を乗せたチャーター機で、事故の4時間前にアムステルダムのスキポール国際空港を離陸した。どちらの飛行機も、最終目的地は大西洋のリゾート地であるグラン・カナリア島のラス・パルマス空港であった。最終目的地に近づく途中、パンナム機は、ラス・パルマス空港がカナリア諸島分離独立派組織による爆弾テロ事件と、さらに第二の爆弾が仕掛けられているという予告電話のため臨時閉鎖したと告げられた。パンナム機は空港閉鎖が長くは続かないという情報を得ており、燃料も十分に残っていたので、着陸許可が出るまで旋回待機したいと申し出たが、ほかのたくさんの旅客機と同様に近くのテネリフェ島のロス・ロデオス空港にダイバート(代替着陸)するよう指示された。KLM機も同様にロス・ロデオスへのダイバートを指示された。

 ロス・ロデオス空港はテイデ山の麓に位置する、1941年開港の古い地方空港であった。1本の滑走路と1本の平行誘導路および何本かの取付誘導路を持つだけの規模で、地上の航空機を監視する地上管制レーダーもなかった。小さな空港はダイバートした旅客機ですし詰めの状態であった。KLM機が着陸した時点で主エプロン(駐機場)のみならず、平行誘導路上にまで他の飛行機が駐機している状態だったので、管制塔は平行誘導路端部の離陸待機場所への駐機を命じた。およそ30分後に着陸したパンナム機もこの離陸待機場所のKLM機後位に他の 3機とともに駐機した。平行誘導路が塞がっているため、離陸する飛行機は滑走路を逆走して離陸位置まで移動する必要があった。

 パンナム機着陸のおよそ2時間後、ラス・パルマス空港に対する二度目のテロ予告は虚偽であることが明らかになったため、同空港の再開が告知された。乗客を機外に降ろさず待機していたパンナム機は離陸位置へ移動する準備ができていたが、KLM機とそれに給油中の燃料補給車が障害となって移動することができなかった。既に乗客を降ろしてしまっていたKLM機のヤコブ・ファン・ザンテン機長は、乗客の再招集にある程度の時間が掛かることもあり、ラス・パルマスに着いてからではなく、このロス・ロデオスで給油してしまうことに決めた。この給油が開始されたのが、ちょうどラス・パルマス空港再開の一報の5分ほど前であり、目前でそれを見ていたパンナム機はいつでも離陸できる状態であったので、無線で直接KLM機にどれくらい掛かるかを問い合わせたところ、詫びるでもなく「35分ほど」と回答された。何とかKLM機の横をすり抜けられないかと、パンナム機のヴィクター・グラブス機長は副操縦士と機関士の2人を機外に降ろして翼端間の距離を実測させたが結果はギリギリで「不可能」だった。仕方なくパンナム機がKLM機の給油(55.5kl)を待つ間に、目前を10機以上が離陸していった。また同じ位置にいた他の3機は747ではなかったので、上手にKLM機の脇をすり抜けて離陸していった。KLM機の乗客のうち1人だけが、テネリフェ島に住むボーイフレンドのところに泊まるためこの空港で降りることにしたため、乗客数は235人から234人に減った。給油が終わると、KLM機は先にエンジンを始動しタクシング(自走)を開始した。数分遅れでパンナム機もそれに続いた。

 16時58分、管制塔の指示に従い、KLM機は滑走路を逆走して端まで移動し、180度転回した。その位置で航空管制官からの管制承認を待った。移動の最中、霧が出現し、1000フィート(300mほど)しか視界が利かなくなった。管制塔は滑走路の状況を目視できなくなった。17時2分、パンナム機はKLM機に続いて同じ滑走路を逆走した。パンナム機に対する管制塔からの指示は、滑走路途中の「3番目の出口」まで進み、そこから左へ滑走路を出て平行誘導路に向かい、そこでKLM機の離陸を待つように、というものだった。霧の中、C3出口に到達したパンナム機クルーはこの出口を出るためには左に135度転回し、さらに平行誘導路に出る時にはもう一度右に135度転回しなければならないことに気付いた(通常747のような大型機にこのような困難な進路指示は出すものではないが、このような指示を出したのは当時747は最新鋭の大型機で管制官にその知識が薄かったためとされている)。パンナム機クルーは小さな滑走路で747がこのような急転回をするのはほぼ不可能と考え、管制塔からの「3番目の出口」という指示はC3出口のことではなく、指示を受けた時点(C1出口を越えていた)から3番目にあたるC4出口を指示したのに違いないと思い込み、C3出口を通り過ぎ、そのままC4出口に向けてさらに滑走路を進み続けた。

 KLM機のファン・ザンテン機長はブレーキを解除し滑走を始め、副操縦士が管制承認が出ていない事を意見する。17時6分6秒、副操縦士は管制官に管制承認の確認を行い、17時6分18秒、管制官は管制承認を出した。管制承認はあくまで離陸のスタンバイであり、離陸を始めていいという承認ではないが、管制官は承認の際に「離陸」という言葉を使い、KLM機はこれを離陸許可と受け取ったとみられる。17時6分23秒、副操縦士はオランダ訛りの英語で"We are at take off"(これから離陸します)または"We are taking off"(離陸しています)とどちらとも聞こえる回答をした。管制塔は聞き取れないメッセージに混乱し、KLM機にその場で待機するよう答えた。「OK、(約2秒無言)待機せよ、あとで呼びます」。この「OK」とそれに続く2秒間の無言状態が後に問題とされる。パンナム機はこの両者の遣り取りを聞いて即座に不安を感じ、「だめだ、こちらはまだ滑走路上をタクシング中」と警告した。しかしこのパンナムの無線送信は上記2秒間の無言状態の直後に行なわれたため、KLM機では「OK」の一言だけが聞き取れ、その後は混信を示すスキール音しか記録されていない。2秒間の無言状態により、航空管制官の送信は終わったと判断してパンナム機は送信を行ったが、航空管制官はまだ送信ボタンを押したままだったので混信(ヘテロダイン現象)を生じた。しかも航空管制官とパンナム機の両者はこの混信が生じたことに気付かなかった。これにより、パンナム機は『警告がKLM機と航空管制官の双方に届いた』、航空管制官は『KLM機は離陸位置で待機している』、KLM機は「OK」の一言で『離陸許可が出た』とそれぞれ確信し、実際にKLM機はスロットル全開にして離陸滑走を開始した。

 霧のため、KLM機のクルーはパンナムの747がまだ滑走路上にいて自分たちの方向に向けて移動しているのが見えなかった。加えて、管制塔からはどちらの機も見ることができず、さらに悪いことに滑走路に地上管制レーダーは設置されていなかった。だが衝突を回避するチャンスはもう一度あった。上記交信のわずか3秒後に改めて航空管制官はパンナム機に対し、「滑走路を空けたら報告せよ」と呼びかけ、パンナム機も「OK、滑走路を空けたら報告する」と回答した。このやりとりはKLM機にも明瞭に聞こえていた。これを聴いたKLMの機関士はパンナム機が滑走路にいるのではないかと懸念を示した。事故後に回収されたKLM機のCVR(コックピットボイスレコーダー)には以下の会話の録音が残っている。
KLM機関士:「まだ滑走路上にいるのでは?」
KLM機長:「何だって?」
KLM機関士:「まだパンナム機が滑走路上にいるのでは?」
KLM機長/副操縦士:「(強い調子で)大丈夫さ!」
 おそらく、ファン・ザンテンは上司であるだけでなく、KLMで最も経験あるパイロットの一人だったためだろうが、機関士は重ねて口をはさむのを明らかにためらった様子だった。


 KLM機に警告を与えた(と思っていた)パンナム機コックピットでは機長が「こんなところとはさっさとおさらばしよう」、機関士は「ええ、(KLMは離陸を)急いでいるんでしょうね」、「あれだけ我々を待たせたくせに、今度はあんなに大急ぎで飛ぼうとするなんて」といった会話がなされていたが、17時6分45秒、滑走路のC4出口に差し掛かったところで機長がKLM機の着陸灯が接近してくるのを視認した。「そこを!あれを見ろ!畜生!…バカ野郎、こっちに来やがった!」また、同時に「よけろ!よけろ!よけろ!」という副操縦士の声も記録されている。衝突直前、パンナム機の操縦士たちは出力全開で急速に左ターンを切ろうとしたが、あまりにも時間がなく、機首を45度ほど曲げるのが精一杯だった。一方KLM機はその速度が既に「V1(離陸決心速度)」を超過しており停止制動はできず、さりとて「VR(機首引き起こし速度)」には達していない状態だったが、17時6分48秒、衝突を避けようと強引に機首上げ操作を行い、機尾を滑走路に20mにわたり擦り付けていた。機長が衝突の瞬間まで「上がれ!上がれ!上がれ!」と叫ぶ声が記録されている。17時6分50秒、わずかながら浮き上がったKLM機の胴体下部は、滑走路上で斜め左へ転回中だったパンナム機の機体上部に覆い被さるような形で激突した。KLM機の機首はパンナム機の上を超えたものの、機尾と降着装置はパンナム機の主翼の上にある胴体の上右部に衝突し、KLM機の右翼のエンジンはパンナム機の操縦席直後のファーストクラスのラウンジ部分を粉砕した。KLM機は一時は空中へ浮上したが、パンナム機との衝突により第一エンジン(左翼外側)が折れ、第二エンジン(左翼内側)はパンナム機の破片を大量に吸い込んだため、あっという間に操縦不能の状態に陥った。KLM機は失速し、衝突地点から150m先で機体を裏返しにして墜落し、滑走路を300mほど滑り爆発炎上した。胴体上部を完全に粉砕されたパンナム機はその場で崩壊し、爆発した。KLM機の乗客234人と乗員14人は胴体の変形が少なかったにもかかわらず脱出の様子もなく全員死亡し、パンナム機は396人のうち335人(乗客326人と乗員9人)が死亡した。原因は、衝突時に漏れた燃料による爆発と炎だった。同機の犠牲者には映画女優・映画プロデューサーのイヴ・メイヤーが含まれていた。

 パンナム機のグラブス機長、ブラッグ副操縦士、ウォーンズ機関士は乗客54人と乗員7人の生存者に含まれていた。機長らは救出される際、KLM機に対して激怒していたという。パンナム機の生存者は、KLM機との衝突場所と反対側の機体左側の座席におり、爆発で機体が左右に引き裂かれた際、滑走路上に崩れ落ちた左側は炎上しなかったために助かったのだった。生存者は機体の穴から滑走路上に逃げ出したが、フルパワーのままだったパンナム機のエンジンが機体から外れて暴走し、滑走路上にいた生存者の一人に衝突して死亡させた。消防士たちは燃えるKLM機のほうに向かったが、濃い霧のためにしばらくはパンナム機の生存者に気づかなかった。

 個々の要因のどれが相対的に重要であったかは今も議論があるが、総合的な結論は、以下の要因が部分的に原因となって事故が起こったというものであった。
●航空管制官が2機を同時に滑走路に進入させたこと。
●KLM機が「管制承認」を「離陸許可」と誤認して離陸滑走を行ったこと。
●パンナム機が指示されたC3出口で滑走路を出なかったこと。
●KLM副操縦士および管制官が標準でない用語("We're at take off"と"O.K.")を交信に使用したこと。
●押しつぶしたような無線音声、ヘテロダイン現象が起こった事により、それぞれに誤解が生じた(まったく同時に航空管制官とパンナム機両方が送信を行い、それゆえ交信音声が打ち消し合いKLM機には聞こえなかった)。
●パンナム機機長が「まだ滑走路にいる」と報告したとき、KLM機長はそれを機関士が進言したにもかかわらず離陸を中断しなかったこと。
●KLM機は燃料を補給して重くなっていたこと(補給をしていなければギリギリの線でパンナム機をかわせていた可能性もあった)。
 他にも、たとえ立証できないにしろ、事故につながった可能性のある要因が憶測されている。
●管制塔からの送信音声のバックにはサッカー試合のテレビ放送の音がはっきり混じっていた。スペインの航空管制官は管制塔内で管制中にサッカー試合を視聴しただけでなく、サッカー試合に気を取られ管制がおろそかになった可能性がある。
●ファン・ザンテン機長はKLMでも最上級の操縦士で、747操縦のチーフトレーナーでもあり、KLMに所属するほとんどの747機長/副操縦士は彼から訓練を受けており、事故当日のKLM機内誌の広告には彼の写真が掲載されていた程の人物であった。彼は6年間フライト・シミュレーターで新人パイロットを訓練する担当者になっており、その間は月平均21時間しか飛行しておらず、またこの日の飛行前12週間は1度も飛んでいない。これらの事から、シミュレーターの中のすべての役割を行ってきた結果、全ての権限は彼の掌(てのひら)にあると錯覚するようになり(トレーニング症候群)、それが彼が航空管制官の指示を問いたださなかった理由ではないかと示唆する専門家もいる。
●クルーの職務時間の超過に関するオランダの規則があるため、ファン・ザンテン機長は遅れたフライトを急いで再開しなければならないと考えていた可能性がある。
●悪化する一方の気象条件(濃霧)は視程不良による滑走路閉鎖の可能性が高く、一刻も早く離陸しないとロス・ロデオスに留まらざるを得なくなる。その際の乗客の宿泊代などのKLMの金銭負担が増える結果になることをクルーはわかっていた。加えて、それまで散々待たせたパンナム機まで巻き添えにして離陸できなくなるのは気の毒だとの配慮と、それによる焦りも指摘されている。

 テネリフェ島では、島北部のロス・ロデオス周辺の地域には頻繁に危険な霧が発生することから、事故発生後、島南部に新たにテネリフェ・スール空港が建設され、テネリフェの国内・国際線の大部分を扱うようになっている。悲劇の現場となったロス・ロデオス空港は、カナリア諸島内部やスペイン本土からのフライトに使用されている。

 オランダの航空当局は当初、KLM機のクルーの責任を認めようとしなかったが、KLMは最終的には事故の責任を受け容れ、遺失利益に応じて遺族にそれぞれ、58000ドルから600000ドルを支払った。アムステルダムには犠牲者の墓地および記念碑が作られている。カリフォルニア州オレンジ郡ウェストミンスターの墓地にも同様の記念碑がある。また事故30年を機に、2007年、オランダやアメリカなどに住む遺族や、事故当時の救急に当たった島の人々が合同で慰霊祭を開き、テネリフェ島のメサ・モタ山に国際慰霊碑が建てられた。

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